6月に

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2022/6/4

久しぶりに朝を歩いた
野薔薇の白い花
クサノオウ
ノフジには
ちいさなちいさな実がぶら下がり
露を纏う青い麦と
風の道をみつめる

早春の頃から続いた息つく間のないような
溺れかけそうになっては必死に漕いでいたような日々に
一息ついたといえばそうなのかもしれない
こうやって朝に歩くことも いつぶりなのか
もう思い出せないくらい
その清々しいこと、久しぶりなこと
身体いっぱいに朝を満たす

振り返れば2022年が明けてからここに何も記してこなかったこと 
ブログがとまっているね、と展示会に来てくださった方にも声をかけていただきました。
す、すみません。気にかけていただきありがとうございます。

ほんとうの悲しみをまだ知らないんだ、というような想いが不意に湧き上がってきたのが2021年末のこと心に溜まる想いを、言葉にしても全くうまくいかないし、と諦めて遠のいて、しばらくそのままに 過ぎていきました。
どこかでもうわかっていたような、予感していたようなこと、父を見おくる、ことはやがて実感となって起こり
ただルルがいつもの通り部屋中を走り回り、時に背中をすり寄せてくる日々の中で
気持ちは行きつ戻りつ、を高速な頻度で繰り返し ただ過ぎていった気がします。

生命は

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者との総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれているもの同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのはなぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

吉野弘「生命は」より

父の葬儀の日、父の友人のお一人が選んで朗読してくださった詩です。


言葉にできなかった間も、絵は描いていたこと
草花が日々光へと伸びる季節にあったこと
春から初夏の大きな個展が二つあったこと
今になって思えば それが支えになっていたのかもしれません
そしていくつもの本の、ふとした言葉に励まされていました
エッセイ、小説、ドキュメンタリーとジャンルは違うのに
ノートに書き留める言葉は どこかの文脈ででつながっていて
不思議だ
向こうから光を放って言葉がこちらに向かってくる ように

”自分自身への純粋な信頼
それ以外の義務を 私は知らない
この真実に 証拠はない
この神秘を 私は愛しながら見つけた
完遂への道は 果てしない
日々の すべての瞬間を心に留めよ”

ロシアの詩人 ワレーリー・ブリューコフ   
大阪行きの旅にと選んだまま、八ヶ岳に戻って休養の日々に
やっと読み終えた本「夕暮れに夜明けの歌を」奈倉有里 著

「ただ間違いなくわかるのは 私は目の前にいるこの人に、これから生きていく上で生涯大切にするもの、自分の生き方にとって一番大切な何かをもらったということだった。それもひとつだけではなく、数えきれないほどの抱えきれないほどの。」

最後になりましたが
八ヶ岳ギャラルリーアビアントでの個展(父との二人展、続く阪急うめだ美術画廊での展示会へ
足を運んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
遠くから、近くからいつも応援してくれる友人そしてゆるりと繋がる皆様から
温かな想いを沢山受けとめることができた日々でした。
心から感謝の気持ちでいっぱいです。

久しぶりすぎてまだ自分の言葉を取り戻せてないまま 引用が多くなるかもしれませんが
また時々ここにも書き留めていきたいと思います。

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