2022/4/16
ニリンソウに会いに行く
八ヶ岳に移り住んでもう20年になるというのに
まだまだ行ったことのない場所は多々あるもので
よく通りすぎている道からすっと一本入ったところに渓谷へ続く遊歩道があること
今ニリンソウが咲いているらしいよ、と聞いて
会いに行ってきました
澄んだ水の流れを聴いて
木漏れ日の中で
たのしそうだったなぁ
群れになっても
美しいとは
どう言うことなのか
それぞれが思うがまま
風に揺られ
光の方へ身を向けてるもの
俯いてるもの
隣同士で囁き合ってるもの
それぞれがそれぞれなのに
少し離れてみると
群れになって
ダンスしてるみたい
この日ニリンソウの群れが見せてくれた
白いさざ波のような景色を描いてみたい
「それは夢で見た これも夢で見る
そしてあれもまたいつか夢に現れるのだろう
すべてが繰り返され 具現化され
そして私が夢に見たすべてをあなたがたも また夢見るだろう
この世界から離れた場所で
波が次々と岸辺に打ち寄せている
波面に映るは星、人、鳥
そして現、夢、死ー 波また波が打ち寄せる…..」
アルセーニイ・タルコフスキー『白い、白い日』 より
何かを美しいと思う、その美の感覚はひとそれぞれで
それはいつどんな風に身体のうちに作られていくのだろう
小さい頃から、日々何かを目にし、口にし、陽を浴びて風をうけてきたなかで
微細なことにふと心が動く、そういう経験を
誰に教わることもなく積み重ねていくのだと思う
”美しい”という概念を知る、そのずっとずっと前から
それぞれの差異でそれぞれの感じ方で。
「人間の美的感覚は、長い生命の歴史の中で繰り返されてきた
数知れない経験の蓄積の遺伝的記憶の産物である」
そんな一節を読む
”小泉八雲論” 「ことばと創造」 鶴見俊輔
私が美しいと感じるものは
この心身だけの感覚ではなくて
もしかしたら嘗て父母が、祖父が美しいと感じたものの一端なのかも知れないとしたら?
さらに遡って、ある時代の冒険家がどこかで出会った鳥を美しいと感じたことにも
連なる、、、なんて思いを馳せてみる
それが正しいかどうかは別に
そう感じてみる、
ぐわりと景色が広がっていく
「各人は己の中に美の理想を有している。それは嘗て眼に美しく映じた形や色や
趣のありし知覚の無限の複合に他ならぬ」
この理想は本質に於いては静態的であるが、潜伏していて」
やがてある時「生ける感官が何物かに相対した時に」心の中にある(美の理想なるもの)が
「突如として点火」する 、のだと
何か新しいものを初めて見たり聞いたりしたときに
「私たちは驚愕を感ずるのですがそれは見たり聞いたりしたものの
斬新なる固めでなく心中に於ける奇異なる反響のためだということなのです
私は反響と申しましたが、記憶の反響という言葉を使った方が大層良いのでしょう」
(小説「遺伝的記憶」小泉八雲より)
そうなのかもしれない、と思う
そして春はとくにそうだと思う
枝の芽吹きに すみれの花に出会うたび
知っているはずの春なのに、また驚く
幾万年もの春の記憶は身体の内側に反響している